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2007年10月21日 (日)

『鬼太郎が見た玉砕』を観た

以前、見そびれてしまったNHKスペシャルのドラマ『鬼太郎が見た玉砕』の再放送をやっていたので観てみた。ドラマは水木しげるの作品『総員玉砕せよ!』をもとに、その作品を描く水木しげるの生活と漫画の中のドラマがクロスオーバーして展開してゆく。

で、感想――

いやぁ、良質のドラマだったなぁ……。ラストシーンには思わず涙がこぼれたよ。(以下ネタばれ注意!)

玉砕から生き残り漫画家となった丸山(水木しげる)のもとに、玉砕で死んだ鬼軍曹(いつも丸山にビビビ!とビンタをはっていた)の幽霊が現れ、またビビビ!とビンタをくらわす。ビンタの意味がわからず困惑する丸山に軍曹は、生き残った丸山が戦後再び玉砕の地に訪れ、そこで彼が笑ったことに対して責めたてる。それに対し丸山は『わからんのです。ただ、こうやって生き残って元気でいることに対して嬉しくて思わず……』と、言葉では現せない複雑な感情をなんとか伝えようとする。それを聞いた軍曹は丸山が今まで見たことがないような優しい目をしてこう答える。

『丸山。百まで生きろ。百まで生きるんだぞ!』

一匹の蝶となり消えてゆく軍曹。それを見送る丸山(水木しげる)の目からは大粒の涙がこぼれる……。

――こんなカンジだったかな。

玉砕については、今でこそその無意味さを問われているが、当時前線で戦っていた兵士達……というか、あの時代の私らとなんらかわらない一般市民であった先人達の気持ちを考えると、無意味だったと簡単に言い切るのは、『あえて死を決意した』先人達の心に対してあまりにデリカシーがなさ過ぎだと思う。もちろん、それは玉砕や戦争を肯定する考えから言っているのではない。戦争という政策の下、グロス的に踏みにじられていった人々の一人一人の『普通の心』に対してはデリカシーを持つべきだと思っているだけだ。グロス的に『無意味だった』と結論づけられたら死んでも死にきれないと思うよ。

ドラマを観ながら、もし自分が玉砕を命じられた兵士だったら――と、想像なんかしてみた。たぶん、自分だったら泣くだろうなぁ……。死ぬのが怖くて、そして国に残した家族や恋人、友人と二度と会えなくなる寂しさに耐え切れず。もしくは、逆にそれらの感情から逃れる為に、あえて何も考えず敵陣に向かって先頭をきって突撃していったかもな……。それとも逃げたかな?(なんか逃げそうな気がする)

ちょっと、不謹慎な想像に思われたかもしれないが、玉砕というか戦争で死んでいった人々はリアルな存在であり、決してファンタジーのキャラなんかではない。だから想像という方法で先人たちの心に近づくのは決して悪くはないと思っている。同じ人間だ。『普通の心』で素直に想像すれば近づけるはずだ。

でも、皆、あまり想像したくはないだろうな。だって、まじ心張り裂けそうになるからなぁ……。で、いつしか皆が想像しなくなり、あの時代の人々の心が風化してゆくんだろうな。そして、再び『普通の心』より『政策』を優先するグロス的思想が人々の心を踏みにじってゆく時代が来るのかな……。なんてドラマを観ながらあれこれ考えてしまった。

おっと、語ってしまったな。あまりこういう話しに力を入れると『面倒くさい人たち』に突っ込まれるからこの辺りでやめとこう(笑)。

そうそう、劇中、鬼太郎とそのオヤジ、そしてネズミ男がアニメとなって狂言回し的に登場するが、アニメのタッチがもろ水木しげるの漫画のタッチなのでファンにはたまりませんぜ。(アニメーターさん、お疲れ様!) オマケに声優陣が鬼太郎(野沢雅子)、ネズミ男(大塚周夫)、目玉オヤジ(田の中勇)という初代メンバーなのがまずますファンを喜ばせます。

あと、ビンタの回数の多さと、本気でやっていたので思わず苦笑してしまいました。(香川照之さん、グッジョブ!)

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